海野秀之(うんのひでゆき)の外部記憶
Twitter (twilog) / RSS / アンテナ / ぶくま
えー、僕がわりと子供のころから血液型占いの類は知られていたので、 一度も信じそうになったことがないかと言われると断言できないようにも思うけれど、 まあ、基本的には信じていなかったと思う。なにしろ、「あなたは絶対BかOだ。A型である 筈が無い」とか言われなきゃならん理由がわからん。
ともかく、あれを科学的な何かとして「信頼」したりはしないんですが、 雑誌とかパラパラ流し読みしているときに、血液型占いのコーナーがあれば、 わりと読んでしまうなぁ(いまは、そういう雑誌に触る機会がないので、 正しくは「読んでしまっていたなあ」なんですが)。
で、「あんなものを読むなんて!なんて非科学的!あほじゃないか!」と言われても、 ピンとこない。信じてないけど、読んじゃいけないとも思わない。
じゃあ、信じていないくせになぜ読むのか、自分なりに分析してみたことがある。 ありふれた認識だとはおもうけど、最近の偽科学批判の文脈ではあんまり語られることが ないみたいなので(ま、当然か)、書いてみる気になっちゃってみた。
僕の自己分析結果:人が(僕が、ですね)雑誌の血液型占いのページを読んでしまう 理由は、「基本的に自分には無関心なこの世界のなかに転がっている一冊の雑誌のなかで、 唯一自分個人宛に書かれた文章のように思えるから」だ。
信じているわけではないので、「あたる」か「あたらない」かは問題にならない筈だが、 「自分個人宛に書かれた文章のように」感じるためには、ある程度は自分にあてはまる と錯覚できなければならない。そこで 「バーナム効果」ですね。
それに、「今日は中華料理をたべるといいよ」とか書いといてくれると、 昼飯なに食うか決めかねていた時なんかは、ちょっとありがたかったり。 もちろん、他に食べたいものがあるときに、それを曲げたりはしない。 おみくじとか、鉛筆転がしたりとかと同じ地位ですね。
こんな距離感でつきあうのが普通だと思うので、血液型占いが「悪」だとも思っていなかった。 それが悪なら、それを消費する(需要を生む)ことは、悪に加担することになってしまう。 えーと、おいらは悪いことしてたんですかと。そーも思ってなかったんですけど。
で、上で述べた「錯覚」を支援するのはバーナム効果だけじゃなくて、それが科学を装っている ことだったりする*1。
科学を装っていることには、はっきりと弊害があるんですよね。
「別に科学的だとは思っていないけど、文章としては消費するよ」という落としどころは 結構 Win-Win だと思うんだけどなぁ。互いに殲滅をめざすんじゃなくて、 子供のころにかかっておくべき風邪または教材としての地位に安住しておいてもらうと。
だめか?
っていうか、大多数のひとは、この程度の付き合いをしていて、 本気で信じていたりする人は珍しいと思い込んでいるんですが…… あーこの認識が間違っているのかなぁ。
今朝もうちに転がっていたチラシについていた星座占いをみながら、 「うちの子は、しし座とさそり座だっけ。つよそー。牡牛座丑年のうし・うしコンボの 父親とはちがうよな」とかいってから会社に来て、 an-an のなんとか特集がむちゃくちゃでけしからんみたいな記事を読んだら上のような 文章がでてきました。
と、いま気づいたんですが、僕がたまにパラパラ読み流していたのは、 血液型占いじゃなくて、星座だったかも。 おお、僕は本当に、本格的に、両者をまったく区別していなかったのか!!
まあ、どっちもどれを読めばいいかの index としてしか機能していないのだし。 おみくじの、あの、ジャラジャラといっしょだ。
*1 あれー、ちがうかなぁ。科学を装っていることは「錯覚」には寄与していなくて、そういうモノを公共の場で垂れ流すことを正当化する根拠になっているのか、な?
細切れの空き時間を利用して読んでいたので、やっと読了。
おもしろい。
「おもしろい」と言う以外に何も必要ないと思うんだけど、一言では言い足りない。
僕は、ふつーの昭和生まれの男の子として、デフォルトの遊びがキャッチボールであって、 テレビで野球をみたりしてきました。 それが、たとえ、ただひとつ、今日この本を読み終えて感動するためだったとしても、 ぜんぜん惜しくない。そのくらいおもしろかった。
あの高架下の本屋にとことこ歩いていって、いっぱい本があるなかから、 この一冊を引き抜いてきた俺って天才! あー、いや、ひきあわせてくれた(と勝手に感謝している) shiro さんと 帆掛さんに感謝。
おお、最初はそっちの目を隠していたのかぁ!邪眼が移動した?!