海野秀之(うんのひでゆき)の外部記憶
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いや、失敗するのも経験のうちだと思っている。
文章を書いて、それを人に読まれるところに置いてみると、 そうする前にはちょっと予想してなかった事態に出くわすことが多い。 大抵は、さほど重大な「事態」にはならず、「へー、そういう読まれかたするんだぁ」 という発見をする程度なのだが。
もっとはっきりと失敗することもある。 ああ、あんなこと、あんな風に書かなければよかったなと反省する。 それもアリだろう。今度はもっとうまくやれるかもしれない。 それに、自分にはその程度の実力しかないんだと知っておくことにも意味はありそうだ。
そんなわけで、文章を書くことで、自分の拙さが露見することを厭わずに、 ちょこちょこ書いてみようかなと思っているわけですが……ですが……
次の主張には、全面的に賛成せざるを得ません。
四十手前のおじさんからのアドバイスですが、ブログとか書くのは三十過ぎてからにしとけよ! 中学生とか高校生とかハタチぐらいのときの文章がウェブで全世界に好評されて しかもアーカイブとかキャッシュとかで永遠に残るって、それなんて地獄?
今の僕が書く文章だって、拙いし、場合によっては不愉快だろうし、 アホな子が書いたようにしか見えないこともあるだろうけど…… これでもある程度注意を払っているんですよ!まぢで!!
10代、20代の僕が発する言葉は、もっとイタかったと思う。 ほんと、それが事実上永久に参照可能な場所に置かれてしまうなんて! まさに、「それなんて地獄?」
幸い、当時の僕の言葉は、音声として大気中に拡散してしまったか、 Nifty Serve の終焉とともにどっかへいったか、 友人の PC のメールボックスに暫く堆積した後に消滅したかのいずれかの経路をたどったはずだ。 ほっ。いまの時代に10代とかじゃなくてよかったぜ。
読解・対話を通して見えてくる、相手のコミュニケーション可能性(駄目だこりゃ、というのも含めて) に書かれているようなことは、ある程度実感としてわかっているつもり。 それも、失敗を通じて。
一生残ってしまうわけではない失敗を経験できた方がいいでしょう。
そういった意味で、若者には、「箱庭」が用意されていても良いと思う。 おっちゃんが、こういうこと思うのは、傲慢ですかね。
英語のペーパーバックを読破したことのない、おれさまが、ですよ。
いやしかし、「小説作法」を読めば、「キャリー」を読んでみたくなります。 奥さんが、ごみ箱からサルベージして、筆者を励まして、 ふたりで喜んだデビュー作がどんなだったのか。
「小説作法」は、その題名から、読者を選ぶ感じがするかも知れないけど、 んなこたないと思う。 スティーブン・キングが、書くという行為について綴ったエッセイです。
僕は、「小説作法」を、たまたま日吉の古本屋でみかけて入手したんですが、 もしかして、これも 絶版だったりするの?
「キャリー」も、邦訳は絶版なのか なぁ。
まあ、「キャリー」は、やっぱ邦訳にしておくべきか、 筆者が自分で綴った文章を読みたいので原書かと迷っていたところに、 選択肢が狭まったので、ある意味助かったんだけど。
「小説作法」はおもしろいよ! 結城さんも書かれているように、 読みながら、なんども涙ぐんでしまう。 たとえば、「キャリー」のペーパーバック化が決まった知らせは、 ほんとに嬉しい。 その知らせを聞いた奥さんは、泣く。 そりゃそうだろう。読んでるこっちも泣きそうだもん。
しかし、キングは「彼女は、泣いた。」としか書かないんだよね。 文章はそうあるべきだと主張しているエッセイのなかで、見事にそれを実践している。