海野秀之(うんのひでゆき)の外部記憶
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これを読んで、 ふと思った。
僕が、もし、困り切っている外国人を見つけたとする。 しかも、幸いいまは暇だ。
暇にまかせて、彼の当面の困難をすっかり取り除いてしまうまで助けてあげれば、 彼はかなり助かるんではないか。 いっしょに泊まるところを探してあげて、なんなら家に泊めてやろうか?
でも、現実の僕は、そんなことしない。できない。どうしてだろう?
最初に思いついた言い訳は、「そーゆー社会じゃないもん」だ。
だってね、そこまでするのは、「普通」じゃないもの。 そこまで親切にするのは標準的じゃない。 でも、その親切を単発のつもりで行ってしまって、でも、その外国人が、たびたびその 「親切」を必要としてしまったらどうする? 思うに、社会にそんな受け皿はないよ。 自分ばっかり頼られたり、なつかれるかも。めんどくせー。
もし、みーんなが、そういう親切を当たり前に行う社会だったら、 そんな心配しなくていいよね。
うーん、さすがに、書いてみれば、なんか違うというのはわかるよ。 つか、ツッコミどころは満載だと思う。
だけど、ちょっと隅っこをつっついてみる。
「自分が妊婦になると、急に世の中が妊婦だらけだったことに気づく」 という話はご存じだろうか。 僕は妊婦になったことがないけど、配偶者が妊婦になったことはある。 すると、この話が本当だったことに気づく。 (この話を耳にするのも、その辺のタイミングだったりするんだけど)
本当にどっから湧いてきたんだと思うくらい、いままで見てきた筈の風景に、 妊婦や、小さいこどもがいっぱいいたんだということに気づいて、びっくりする。 普段あるいている道に、駅に、スーパーマーケットに。
「あ、小さい子が歩いてる……。あ、こけた!」
当然のことながら、急に湧いてでたわけではない。 今まで気づいてなかっただけで、もとから自分の身の回りには、たくさんいたんだ。
いまの僕は、すごく困っている人をみつけたときに、 とっても親切にしてあげる人は、さほどいないんじゃないかと踏んでいるわけだが…… 調べて言っているわけじゃない。本当に、少ないんだろうか。
もし、自分が一歩踏み出してみたら、おなじように一歩踏み出した人が、 急に町中に溢れかえって見えたりしないだろうか。
「人は、『見たい』ものをみる」というけど、「見たい」という言い方がふさわしいほど、 そのフィルタリングは能動的なものではないような気がする。